あいらぶ富士宮

駿州赤心隊

駿州赤心隊

駿州赤心隊の碑

勤王の志を持つ神官らによって、慶応四年二月二十五日結成。
隊長は富士宮浅間神社宮司富士亦八郎。隊員は鈴木五百重・鈴木楯雄・太田健太郎・森真魚尾・味地瀬兵衛・海野孫兵衛・浅倉勝三郎・名主 彦兵衛・佐藤真次郎・野口一郎・千葉小太郎・卯太郎・三浦千之助・先光右衛門・内藤浪江・大井求馬・八幡主膳 その他。

同隊はこれを三隊に分け、山西組(阿部川以西)に21人、駿府地区(府辺組)に52人、富士川以東(大宮組)に37人が配置され、総勢110人。

総じて佐幕的な地元からは馬鹿にされ
「行けば官軍 帰りは仏 どうせ 会津にゃ かなわない」とからかわれました。征討大総督有栖川宮熾仁親王に随従し、徳川慶喜追討軍に加わり江戸までのぼって、彰義隊との戦いにもめざましい働きをみせました。

駿州赤心隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には、駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起きました。
三保神社神官太田健太郎が暗殺され、草薙神社の神職森真魚尾が襲撃され、ついに代表が上京して大村益次郎に危機を訴えました。
大村は戊辰戦争の戦死者を祭る招魂社を九段に建てて、祭祀を司るものたちに当てることで、危機にさらされていた元隊士を救済しようとしたのです。
東京移住を嫌ったものも多い中、32人が明治2年に作られた九段の東京招魂社に仕えることになりました。大宮においても明治2年以降万野原に移住した260世帯にもおよぶ徳川家臣団により、赤心隊員は恨みを買う恰好の標的で、常に安全を脅かされていました。
明治3年7月に富士大宮司家居館芙蓉館は放火により灰燼に帰しました。
富士亦八郎重本は任を終えて帰郷の命があるも、東京にとどまりついに帰郷することはありませんでした。明治2年に作られた九段の東京招魂社は、明治12年に靖国神社と改称し今日に到っています。

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