富士大宮司家
富士大宮司家について
幕末、第44代重本(しげもと)は、国事を憂う志があり、塾を開き配下の社人や領内有志を集めて、蘭学、漢学、槍術、洋式教練を学ばせました。明治元年、東征大総督宮の東下に際し駿州の神主社人と謀り、駿州赤心隊を組織し、自ら隊長となり、東征大総督宮に随従し王事に奔走しました。その年11月、任を終えて帰郷の命があるも、重本は東京にとどまりついに帰郷することはありませんでした。徳川と関係が深い富士宮は情勢不安が続いたためです。
名門富士大宮司家は、44代をもって世襲を辞しましたが、その業績は誇るべきものがあります。富士大宮司家墓所護持会では、これを顕彰し後世に伝えるべく、墓所の清掃整備し、墓前祭を斎行しています。
- 浅間大社サイトより許可を得て引用
写真は最後の大宮司富士亦八郎重本です。
芙蓉館の碑
富士宮市民文化会館敷地内にあります。
有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には、駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起きました。
三保神社神官太田健太郎が暗殺され、草薙神社の神職森真魚尾が襲撃され、明治3年7月に芙蓉館は放火により灰燼に帰しています。
芙蓉館の碑は明治29年3月、時の衆議院議長楠本正隆が撰文し、揮毫したものです。また碑文の上部の「芙蓉館碑」という篆額は、当時学習院長であった公爵近衛篤麻呂の書になるものです。
碑建立のいきさつを、碑文は次のように語っています。
「富士亦八郎が東京に移った跡、かつて富士氏の住んだ芙蓉館も日に日に荒廃の一途をたどり、その一部は耕地と化し、また他は狐狸の窟となり、ありし日の面影は消え去ろうとしていた。亦八郎はこうした先祖伝来の由緒の地が消え去ろうとすることを恐れ、これを永久に記念するため、この碑を建てようとした。」
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